~8月9日~
硝子張りの建築物が陽炎を映して墓石のように聳え立ち、鏡張りのビルディングが逃げ水を写して墓石のように並び立つ。
澄み切り晴れ渡る蒼穹に揺蕩う雲の峰、白南風を受けて回る風力発電のプロペラに取り付き歌い上げる鳴蜩。
日本人ならば卒塔婆のように見え、異国の血を引くものならば十字架のように思えるそれを――
「………………」
一人の青年が汗ばむ額にボサボサの前髪を張り付かせながら仰ぎ見ていた。
滲むその汗は真夏の陽光による発汗以外にも……
元は上等なものであったのだろう名残の伺える、薄汚れた純白のスーツの背中が滲むほどの脂汗が浮き出ていた。
単に多汗の質と呼ぶには、その青年の彫りの深い端正な顔立ちは苦悩に彩られている。
さながら破産宣告を受け、最早荒縄を首にかけるより他は無しと言った姿がより表現として正しい。が
「黯然……此処は何処だと言うのだ?」
この時青年が破産を迎えたのは己の在り方、破綻を迎えたのは心の有り様だった。
まず最初に青年が理解したのは、怪訝そうな眼差しで立ち尽くす自分を避けるように歩を進める……
世に言う『学生ら』と自分の服装が異なっているという事。
つけ加えるなら、黒髪ないし茶髪の少年少女らの行き交う往来の中にあって……
青年の疎らなシャトリューズグリーンの髪色がこの上なく浮いて見える事だった。
「愕然……私は誰だ?」
思わず口をついて独語する呟きすら、雑踏の喧騒の中にあって掻き消され埋没して行く。
たった今理解した事は自分が何者かわからず……同時に道行く少年少女と自分が違っている事。
少なくとも青年の胸裡にあって自分が違っており、彼等と異っている、という漠然とした認識。
「判然。第七学区というのか、ここは」
人波の中、ついと背けた視線の先……車が行き交う道路の看板の文字が読めた。
合わせて道路の向かい側にはジョセフ、というファミリーレストランが見える。
少なくとも英語と日本語、そしてあれは飲食店であるとすんなり理解出来た。
車、信号機、案内板……物体の名称やそれを意味するものも。
「他に……何かないか」
思わず懐を探り、ポケットを漁る。すると内ポケットから紙幣の束が出、さらにカードが出て来た。
一万円、という通貨だと言う事はわかる。しかしカードがわからない。
青年は知らない。それがマネーカードと呼ばれるものであると。
~2~
「漠然……これしかないのか」
青年はひとまず遊歩道の側にあるガードレールに腰掛けて紙幣を数える。
およそ50万円ある。が、その金額が大きいのか小さいのかがわからない。
一般的に50万円は持ち歩くには大きな金額である。
しかし青年が期待したような、自分が何者かを指し示す痕跡ないし証明となるようなものは何一つ見当たらない。
青年は、自分が何者であるかを保証するものが必要だと言う認識を持っていた。
だが問題は……それを誰に、どうやって、何故そうしなくてはならないかが抜け落ちていた。
「喉が……渇いた。このままでは倒れてしまうではないか」
青年は渇きと餓えを覚えていた。この暑さが夏と呼ばれる概念、もとい季節であるとはわかる。
食べる、飲むという行為も生存の上で不可欠な要素であるとも言う常識を正しく持っていた。
何とかせねばならない。少なくとも金銭で物品や食品を買う・売るという行為を知っている。
青年はガードレールを乗り越え、信号機を見やる。
「画然。赤は危険、緑は安全」
その時信号機は横断を許可しており、青年は歩道の向かい側にあるファミリーレストランを目指す。
スーツのジャケットは脱ぐ。暑くて着ていられたものではないからだ。
店員「いらっしゃいませ!お一人様でしょうか?」
「?。お一人様、とはなんだ?」
店員「は……?」
「?」
店員「あの……お連れの方や待ち合わせの方はいらっしゃいますか?」
「悄然……私一人だ」
店員「?……かしこまりました。禁煙席、喫煙席ございますが、おタバコはお吸いになられますか?」
くぐったドアの元、レジ前にて従業員が案内にやって来た。
青年は会話による意志疎通を内心喜んだが、店員は青年が外国人だから言葉がわからないのかとばつが悪そうだった。
だがそれは青年も似たようなもので、煙草というものはわかったが喫煙席・禁煙席という言葉が理解出来ずにいた。
ひとまず適当に相槌を打ちながら青年は席を勧められるままにつく。
「(晏然……ひとまず、考える事についてまとめねばならん)」
出されたお冷や……水というものを飲み干し青年は文字通り一息つく。
青年はファミリーレストランなるものを知っている。しかし入って飲み食いした記憶がない。
自分が好きだったものすらも。それどころか誰と食べたかさえも。
~3~
「(瞭然。これは食べ物だ……食べ物には肉や野菜や魚がある。甘いもの、熱いもの、辛いもの、冷たいものがある……しかし)」
今、青年が開いたメニューには和風おろしハンバーグなる写真がでかでかと映し出されている。
ハンバーグ、牛肉を挽いて焼いたもの。しかし味がわからない、味を知らない、味を思い出せない。
他にも猫用定食Cセットなるものもあるが――これが人間用でない事は理解出来た。そこへ
???「辞めるって超なんなんですか……一体どういう事なんですか麦野!!」
麦野と呼ばれた女性「言葉通りよ絹旗……私は“アイテム”を引退する」
絹旗と呼ばれた少女「答えになってません!超説明になってません!!」
麦野と呼ばれた女性「………………」
絹旗と呼ばれた少女「どうして黙るんですか?黙ってられたら超わからないじゃないですか……答えて下さいよ!フレンダに!!滝壺さんに!!私に超わかるように説明して下さいよ麦野!!!」
フレンダと呼ばれた少女「きっ、絹旗、落ち着いて欲しい訳よ!そんなまくし立てたら結局わからないって訳よ!」
滝壺と呼ばれた少女「きぬはた。まず、むぎのの話を聞こう?ね?」
「(茫然。何と囂しい。これでは思考が纏まらぬではないか)」
バン!とテーブルを叩きつけるフードをかぶった少女の張り上げた声音と……
対照的に淑やかにさえ見える女性の声色が交差し、青年は嫌々そちらを振り返った。
「(決然。一言言ってやらねば気が済まじ――)」
絹旗と呼ばれた少女「(ギロッ)」
「(……歴然。迫力が違い過ぎる。波を立てるべきではない)」
窓際の席では如何なる修羅場か鉄火場か愁嘆場か青年にはわからないが……
振り返った先をフードの少女に思いっ切りねめつけられ鼻白んでしまう。
どうやら自分は神経質な性格である事、同時に臆病のきらいがある事を青年は理解した。
そしてどうやら少女らの間に諍いがあり、フードの少女がいきり立ち、青年と同じく異国の少女がそれを引き止め、Tシャツにジャージ姿の少女がそれを宥めているのは理解出来た。
一方……吊し上げにあっているらしい女性はとてもそうと思えないほど泰然自若としている。
「(悠然。話から察するに……なんと言うのだ?こういうものは……ダメだ、感覚としてはわかるが思考として纏まらぬ……あの者達も私は知らぬ。覚えなどない)」
~4~
青年は周囲を見渡すも……自分に目を止める者も自分の目に止まる者もいない事を確認する。
さっきから、誰かに気づいてもらいたい気持ちでいっぱいだ。
誰かに声をかけて欲しい。自分が誰だか教えて欲しいのだ。
しかし知り合いなど到底見当たらない。それどころか……
ここが『第七学区』なる場所であり、どこの地名と国を指すかさえ青年にはわからないのだから。
絹旗「……超取り乱しました。麦野、お願いします」
麦野「――私の話はそれで終わりよ」
絹旗「!!?」
麦野「絹旗。質問を質問で返すようだけどね、なら私がなんて言えばお前は納得するんだ?」
絹旗「そっ……れっ……はっ……!」
麦野「私はお前が納得するような理由も持ち合わせてちゃいないし、お前を説得するような言葉も持ち合わせてないんだよ……」
「(この和風おろしハンバーグセットなるものにしよう。食べなくてはならない)そこの。注文を願いたい」
店員「は、はい!あの……」
「うん?」
店員「お手元の呼び出しボタン……」
「凝然。これを押さねば料理を頼めないのか」
店員「い、いえ。決してそういう訳では……」
少女らの押し問答を無視して青年は店員を呼び止めるも……
呼び出しボタンを押して注文をするという事を知らない青年は驚きに目を見開いた。
例えば青年は、先程の少女らのように大声を上げてはならないというマナーを知っている。
しかしこれはどうなのだろうとメニューを持ったまま手が固まり表情が凍てついてしまったのだ。
「(憮然。これは私が知らなかったものなのか、私が忘れてしまったものなのか……それさえわからないのは口惜しいものだ)」
今、青年は何がわからないかわからないという状況下なのだ。
例えば物体はわかる。しかし事象が今一つ要領を得ない。自分の中の虫食いの部分が多過ぎて。
今頼もうとしているハンバーグも同じだ……とそこで青年は思い当たる。
「和風おろしハンバーグと、水のおかわりが欲しい。それから」
店員「はい」
「……つかぬ事を聞くが、私はこの店に来た事はあるか?」
店員「……えっ、いや……それは」
「蕭然……いやいい、何でもない」
失楽園の著者ジョン・ミルトンが『心は己を住まいとする』と語る中にあって……
青年の心の家は今や廃屋も同然であった。青年は意気消沈し、和風おろしハンバーグが来るのを待った。
~5~
「恟然。これが和風おろしハンバーグセットか。外よりも熱いのだな」
店員「はい。プレートが大変お熱くなっていますのでお気をつけ下さいね」
「……すまないが」
店員「はいなんでしょう?」
「これはどうやって食べるのが正しいやり方なのだ?」
店員「えっと……お使いになりやすい方を」
「……初めてなのだ」
店員「?」
「この“箸”と“ナイフ”で食べるのがマナーなのか?」
そして運ばれて来た和風おろしハンバーグセットを見つめながら青年は疑問を露わにした。
右手に赤ちゃん握りの割り箸、左手にナイフという珍妙な出で立ちで。
それに対して同じように店員も疑問を覚えた。外国人だから箸がどういうものかわからないのは仕方無い。
しかしナイフとフォークの使い方を知らない白人男性というものは店員の認識の埒外だったのだ。
店員「よろしければ、お切り分けいたしましょうか?」
「哀然。情けないがお願いする。何分初めての事で勝手がわからない」
店員「かしこまりました……日本にいらっしゃるのは初めてなんですか?」
「……日本?」
店員「はい。やっぱり研究か何かでいらっしゃってるんですね。日本語がとてもお上手ですから」
店員は教育が行き届いているのか、はたまた面倒見が良いのか一口大に切り分けたハンバーグを給仕しつつ……
新しいお冷やを注ぎ、置いた傍らこの不審な外国人青年に声を掛けて来たのだ。
だが青年は研究、日本という言葉の意味はわかったが自分が何をしに、なんのためにここにいるのか依然わからず終いだ。
「日本……東洋の島国……ならば、ここは?」
「?。第七学区……ですが?」
「間然。場所ではない。この街の名前を教えてもらいたいのだ」
ジュージューと香ばしい匂いのするハンバーグから、大根おろしが滑り落ちてプレートで湯気を立てる。
青年の質問が核心に近づくにつれ鼓動が早くなり……ツウと熱気に当てられ首筋に汗が一筋流れ落ちた。
店員「―――ここは、学園都市ですよ?」
青年の首筋に青黒く残る、吸血鬼の牙のような鍼灸痕へと
~6~
「判然。ここは学園都市……というところなのか」
店員が去った後、青年はハンバーグをフォークで突き刺し口に放り込みつつ一人ごちた。
口の中に広がる肉汁を、さっぱりした大根おろしが打ち消す。
噛み締めるほどに胃がそれを欲して唾液が湧いて来る感覚。
そしてフォークで茶碗の米をすくい、頬張る。するとより美味に感じられる。
「カガクのマチ……世界中の学問が研究される場所。私は学生ではなさそうだ……ではカガクシャだったのだろうか?」
ブロッコリーをつまむ。植物のようだと思ったがほんのりと甘かった。
しかしニンジンは甘過ぎて好きにはなれず、代わりにポテトの塩気は嫌いではなかった。
そんな事を思いつつ青年は窓ガラスに映る自分の顔と、ファミレスの道路を過ぎて行く少年少女らを改めて見比べる。
やはり自分は学生ではない気がするのだ。背は彼等より高く、印象だが自分の顔には甘さがないと感じられた。
大人と子供を明確に分けるものの一つに、青年は笑顔の美しさを基準に置く事にした。例えば
麦野「そう……目、覚ましたのね。今どこだって?……別に。今から戻るわ」
先程まで五月蝿かった少女らがいつしか女性一人となり、携帯電話で誰かと話しているのが見えた。
携帯電話というものも青年はわかる。ただし自分がそれを持っていない事がこの時不安だった。
あそこで不器用な笑いを造り損ねた女性のように、自分は会話を交わす相手が果たして自分にはいるのだろうかと。
「(居然。考えるほどに立ち上がる力が失われて行く。私に友人が、家族が、帰る場所が、住む家が、この学園都市なる街に本当にあるのか?なかったらどうするのだ。どこに行けばいいのだ)」
食事を取り、同時に弛緩した緊張感の隙間から、像を結ばぬ綻びからも鎌首をもたげて来る不安。
蛇を目の当たりにした時のような薄気味悪さ、心許なさ、頼りなさ、覚束無さ……
人心地ついた後だからこそ、下がりきった緊張感の気圧に代わって絶望感という水位が上がって行く。
「(私は……どこから来たというのだ?何故自分の事がわからないのだ。私という人間を知るものはいないのか?)」
例えるならば『自分は何故生まれて来たのか』『自分はどう生きるべきなのか』という……
ある種根元的な懊悩にも似た、稀釈すべき安心材料を何物も青年は有していなかった。唯一つとして。
~7~
「(こんなにも、人が溢れている街だと言うのに)」
昼下がりにあって賑わう店内、夏休みとあってそれなりに行き来のある往来。
しかしこの時の青年の心理を端的に表すとすれば――それはコンパスを失った砂漠の海を行く旅人。
もしくは地図を無くしてしまった異邦人というのが表現に近い。
人波に、人混みに、人山に、人集りにあって相対的に表面化する孤独。
「黙然……」
青年は知らぬ事だが、この学園都市には約230万人の人々が住まう、最先端技術を結集させた頽廃の都だ。
幾多の死と数多の生が坩堝を織り成す魔女の釜の底のようなその本質に――
青年は知らない。彼は昨夜紛れもなくこの街の中心部にいた。
神の摂理と悪魔の奸知をその掌の上に乗せていたのだ。
さながら同量の灰とダイヤモンドを秤にかけて……青年は世界を相手にたった独りの戦争を仕掛けた。
たった一人の少女の世界を救うために――青年は己の世界の全てを失ったのだ。
「………………」
青年が腕組みしつつ瞳を閉じる。思考の迷宮を彷徨い、記憶の宮殿を手探りで見つけ出すために。
しかし、いつしか水鉛のように揺蕩う眠気と葡萄酒の澱のように舞い上がる疲労が青年を睡神の畔へと誘って行く。
それは青年の中で大きく失われた『世界の敵』とも言うべき過去の自分が積み重ねてきた疲弊の表れだった。
三年……そう、三年である。三年という時間、歳月、星霜は正しくその売掛を刈り取りにかかっていた。
「(靄然。何という高い雲である事か)」
重力以外の働きかけにより落ちそうになる眦より仰ぎ見る夏空。
青年は睡魔の誘惑の最中、夢と現の迫間を揺蕩いながら王城のようにも振り上げた握り拳のようにも見える……
積乱雲を、入道雲を、夏雲を薄目で見上げていた。
「(確か……仔羊とはああいう姿形をしているものだったか)」
雲の形などその時々で移り変わるというのに、青年はその不定形な迷い羊のような雲に見覚えがある気がした。
誰と出会い、誰と語らい、誰と手を携えたのだろうと青年は眠気の中で必死に頭を巡らせる。
「(――誰か――)」
絶えざる天鵞絨の褥へ誘うような、精神的疲労に覆い被さって来る眠りの彼方に――声が聞こえた気がした。
―――××××××、××××××、起きるんだよ!こんな所で寝たらダメかも!―――
~8~
『××××××……××××××ってば!』
『うっ……』
『起きるんだよ!!』
最初に感じたのは、マホガニーの机の心地良い冷たさ。
次いで感じたのは、私の肩を揺り動かす掌のぬくもり。
加えて感じたのは、慣れ親しんだ古書とインクの香り。
最後に感じたのは、ランタンの放つ仄淡く柔らかい光。
『むう……』
『またこんな所で寝て!身体が痛くなるし、風邪引いちゃうからダメって前にも言ったかも!』
『すまん……ああ、つかぬ事を聞くが、今は昼か?それとも夜か?』
『もう!』
どうやら、また魔道書を書き起こしている最中に眠り込んでしまったらしい。これで四度目になる。
スーツの袖に滲んだインクがこすれたようになりひどくみっともない事に気がつき……
それを口をへの字にして見下ろして来る私の教え子が見下ろして来る。
ようやく机からの抱擁から顔を上げたばかりの私を咎めるように。
『さっき四回目のご飯が終わったからもうお昼過ぎなんだよ。こんな地下書庫にばっかりこもってるからわからなくなるのかも!』
『愕然……ほんの一寝入りのつもりが、時の娘はかくも容赦ない取り立てを行うのか』
『また、朝まで魔道書書いてたの?』
『当然。私にはこれしかないのだからな』
薄暗い闇の中にあって登る銀月のようなプラチナブロンドの髪がランタンの光を受けて白金に輝く。
そう、私は隠秘記録官として、魔術師として、一人の人間として――
この目映い輝きを守りたいがために、こうして気を失うような眠りに倒れるまで魔道書の傾向と対策を練っていたのだ。
この書物の山と文字の海、砂漠のように荒涼と広がる図書館の中で。
『はあ……××××××は頑張り屋さん過ぎるんだよ。でも、頑張るのと無理するのは似てるようで違うかも』
『(ムッ)無理などしていない』
『そうかもね。でも無理はしてなくても、根は詰め過ぎかも!』ギュッ
『お、おい何を!』
『たまにはお外の空気を吸うんだよ!行こう!』
その時、彼女の小さな手が私の腕を引っ張って机から引き剥がした。
カタン、とインクに浸しっ放しにしていた万年筆が倒れるのを尻目に、私は支柱のない螺旋階段を――
グイグイと引っ張る彼女の修道衣の白い輝きを見つめる。
この闇の中にあって、見失わぬ星の目印のように――
~9~
『わあ……あはっ』
『(燦然……眩し過ぎて目が開かぬ)』
そうして階段を登りきり、御美堂を抜け、ステンドグラスの聖人らと壁画の天使らが見下ろす中――
開け放たれた教会の重厚な扉の向こうには、目に痛いほどの鮮明な青と鮮烈な光を受けて生い茂る……
ハーブガーデンと草原を思わせる中庭が広がっている。
地下図書館の淀んだ空気には決して生まれない、まさに颯爽とした風が吹き抜けて行く。
それを純白のスーツに身を包んだ青年が右手を掲げて光を遮り、純白の修道衣を纏った少女が両手を空へ広げる。
『やっと晴れたんだよ!最近雨ばっかりだったからうんざりしてたかも!』
『(蒼然……草木もこんなに様変わりしていたのか)』
霧の都とも雨の街とも称されるイギリスにあって晴れの日を疎ましく思う者はいない。
そしてイギリス人は庭園や植物に至るまで、一つの芸術ないしファッションのように手入れを大切にする。
そんな中にあって青年のように、季節が巡り庭木の様相の変化にまで目の行き渡らない者もいる。
彼は本来、ここイギリス清教の人間ではなくローマ正教の人間だからだ。
逆にローマに源流を持つ人間は庭園よりも建物を大切にする傾向が強い。しかし
『瑩然……』
『ん?』
『……空とは、太陽とは、こんなにも高く広く、眩く輝かしいものだったのだな』
『うふふふ……変な××××××。そんなの、私だって知ってるんだよ?』
『憮然。まさか教え子から教わる事になろうとはな』
空の青、草木の緑のコントラストは少なからず青年の胸を打ったようだった。
書物の白とインクの黒ばかりに馴染み、慣らされきった眼差しにその景観はひどく美しく思えた。
もしかすると、世界とは優しく美しいものではないかと錯覚を覚えてしまうほどに。
『良かった……』
『うん?』
『××××××、最近難しい顔ばっかりしてちっとも笑ってくれないからちょっと怖かったかも』
『………………』
『今、お日様見てニコーってしたんだよ?ニコーって』
中腰になってようやく同じ目線になる、少女の形をとった小さな太陽が微笑みかけて来た。
それは未だ少年と呼ばれる年齢の、されど容貌は青年と呼ぶ以外に形容する術のない――××××××にとっての太陽だったのだ。
~10~
人の魅力とは、大凡に分けて二つあると私は考える。
一つは『この人間について行きたい』というそれと、もう一つは『この人間を支えてやりたい』という二種。
常々思い知らされる。彼女の笑みは後者に当たるのだろうと。
それは彼女のこの笑顔に絆されてしまった私だからこそ感じられるものでもある。
『莞然。私とて嬉しい事があれば笑うくらいする。鉄面皮のように言うのは止めてもらえまいか』
『えー?××××××が笑ってる所なんてまだ三回しか見てないんだよ?このお日様くらい珍しいかも!』
『間然。そんな事はないだろう?もっとあるはずだ』
『忘れた?私の完全記憶能力。ちゃーんと覚えてるんだよ?××××××の笑った顔!』
私が守りたかった笑顔。それが失われて行く恐怖。
彼女が私の笑顔を覚えてくれても、彼女はそれを必ず忘れてしまうのだ。
私は恐ろしい。何が恐ろしいかと言えば自分が忘れられる事ではない。
今私が見蕩れているこの笑顔が、今ここにいる少女の笑顔が永遠に失われてしまう事にだ。
『――ならば、今ここにある世界を欠片も漏らさず刻み込んでほしい』
『ほえ?』
『この空も、庭も、光も、見た全てを――どうか、忘れないでくれ』
喪失への恐怖が希望への焦燥へ、希望への焦燥が知識への飢餓へ。
私は運命の歯車を前に佇むただ一匹の蟻だ。耐えざる恐れと絶えざる怖れを振り切るために私は魔道書を調べている。
書き記し、調べ尽くし、まとめあげて積み重なる魔道書を階段に、私は天上へと手を伸ばすのだ。
『――じゃあ、××××××とも約束したいかも。はいっ』スッ
『?』
『“指切りげんまん”なんだよ!東洋に伝わる、誓約を意味する儀式なんだよ!』
『………………』
『しよ?』
無邪気に差し出された小指と笑顔に、私は泣き叫びたくなった。
しかし、私はそれをこらえて彼女と指を絡める。私も、決して忘れないと。
この、誰よりも神を信じながら神に愛されない運命の星に生まれた、この小さな小さな奇跡。
『ゆーびきーりげーんまーん嘘ついたら針千本飲ーます♪』
『………………』
『ゆーびきった!うふふふっ』
誓ったのは、君が私を忘れてしまったとしても、必ずそれを取り戻して見せるという事。
残酷な神が支配するこの無慈悲な世界にあって、私は君を救うためなら世界すら敵に回して見せると
―――インデックス、君という私の世界の全てのために―――
~11~
店員「……様?……客様?」
「う……」
店員「お客様?」
「む」
気がつくと私は眠り込んでいたようだった。端から従業員の呼び掛けが聞こえて来る。
目を開くと先程まであった空の皿が従業員に引き取られようとしており、お冷やの氷が全て溶けて水になっていた。
店員「お下げしてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ……すまない、今出るとしよう」
何となく気まずくなった私はレストランを出る事を決めた。
食事を取る場所で眠り込んでしまうほどの疲労に苛まれていた事に今更のように思い当たり、またそれを恥じた。
何か夢を見ていたような気がするが……それも思い出せない。
「(食べたら、金を払わなくてはならない。金は持っている。ではこの女に金を渡せばよいのか?)」
内ポケットの紙幣を一枚取り出し、従業員に渡そうとする。
すると従業員は慌てて私をいずこへと導こうとして来た。そこにはこの従業員とは別の従業員がおり……
何やらピアノの鍵盤を叩くように何やら操作し、和風おろしハンバーグ780円と書かれた紙を打ち出した。
私の持っている、厳めしい顔をした男の肖像画が載っている紙……すなわち金とは違う事がわかった。
とりあえず訳もわからないまま一枚金を渡すと、今度は九枚になって帰って来た。
店員「こちらレシートになります」
「レシート……?」
店員「はい」
どうやら足りたらしい。この一万円というものは何やら便利そうだ。
ひとまず、腹ごなしが済んだ私はもう一度街に出る事を決める。
ここが学園都市という街である事、第七学区という場所である情報は手に入れた。
一眠りしたせいか、先程までの押し潰されそうな重圧は幾分和らいだように感じられる。
「決然。何としても手掛かりを見つけなくてはならぬ」
ありがとうございました、と背中にかかる見送りの言葉を受けながら私はレストランの扉を開く。
ムッと茹だるような熱風が蜷局を巻いて、私の身体に吹き付けて来る。
暑い、兎に角暑い。やはり手に持ったスーツはまだ着れそうにない。
しかし、どこに向かい誰に聞き何を手掛かりにするべきなのかがわからない。
潜り抜けた扉をすり抜け、大股に歩き出す、どこを目指すべきかの見当すらもつかない中――
ドンッ
??「うわわっ!?」
「?」
私の視点より随分低い位置から、誰かとぶつかり合った感触と小さな悲鳴が聞こえた。
~12~
初春「うわわっ!?」
最初の衝撃はぶつかった鼻先に、続く衝撃はついた尻餅をついた腰にやって来た。
前が見えなくなるほどの生活用品を買い込んだ袋の中身が飛び出し、路上に転がり落ちる。
初春「痛たたた……」
??「す、すまない大丈夫か?」
初春「だ、大丈夫ですう……」
が、初春とぶつかり合った青年は揺らぎもせず尻餅をついた初春を見下ろし狼狽していた。
その慌てふためいた様子は、散らばった生活用品や転がったオレンジ、あるいはへたり込んだ初春……
どれから助け起こせばよいのか判断に困っているようだった。
普通に考えれば人間に手を差し伸べるのが当たり前なのだが
「唖然。余所見をしていたつもりはなかったのだが……怪我はないか?」スッ
初春「あ、ありがとうございます……(わわっ、手大きいなあ)」
青年は迷いに迷ってから初春へと手を差し伸べ、引き起こした。
起こされた初春も尻餅をついた熱したアスファルトのように顔を赤くして起き上がる。
上背のありすぎる青年と、身体の軽すぎる初春との衝突はかくて解決を見た。
「今、拾おう。悪い事をした」
初春「い、いいですよ別に!」
「そういう訳にも行くまい。こちらに非があるのだから」
青年はそう良いながら料理雑誌やパソコン関係の専門誌、それからズッキーニやゴーヤを拾い上げて行く。
同じく小豆やグリーンピースの缶詰めを袋に詰め直して行く初春もまたそのワイシャツ姿の背中を見やる。
外国人だろうか、と時折見せるその彫りの深い横顔を見やりながら思う。留学生だろうか?と
「………………」
初春「どうかしましたか?」
「いや……(植物とは人の頭に生えるものだったのか?わからない……)」
初春が考えを巡らせている間、青年もまた別の考えに囚われていた。
こんな珍妙な、一目見たら忘れられそうもない花飾りを頭に乗せた少女ならば必ず記憶に残るはずだ。
しかし青年は見る人間全てに、誰か自分の事を知ってくれている者はいないかと言う目で見ていたのだ。
だがこの少女も自分の事を知らなそうだと思うと知らず知らずの内に溜め息が出てくる。
「悄然。君も違うようだ」
初春「私も……違う??」
「ああ……私の知り合いかとも思ったが、また違ったようだ」
初春「?……人捜しでもされているんですか?」
~13~
「人捜し……人捜しか。そうかも知れないしそうではないのかも知れん」
初春「???」
「私を知っている人間を探しているのだ。私が私を知らぬ故に」
初春「(なんだろうこの人……変な人?髪もネギみたいな色してるし)哲学のお話ですか?」
「孑然。今私は一人なのだ。誰も私を知らないし、私も誰もわからない……それどころか自分の名前すら思い出せん。帰る家さえも」
ピクッとそこで初春の手が止まる。手中の茄子を握り締めたまま時間が静止したかのように。
思わず青年の横顔を初春は見つめ直す。帰る家がない?名前がわからない?それは一体何を意味するのかと。
初春「待って下さい……貴方、今なんて仰いました?」
「うん?……言った通りだ。自分がわからない。何も思い出せないのだ。名前も、生まれも、それどころか何故この学園都市に来たのかさえ忘れてしまっているようなのだよ。ほとほと弱ってしまっている」
初春「……質問します」
「?」
初春「昨日の事は思い出せますか?昨日じゃなくても構いません。今日食べたものでも良いんです」
そこで初春の纏う雰囲気と眼差しに宿る光が質を変えた。
ジージージーと泣き喚く蝉の声が響き渡る夏空を行く飛行船が巨影を落として二人の間に陰翳を生み出す。
青年もまたズッキーニとゴーヤとキュウリとバナナとニンジンを確かめるように袋に詰めていた手を止める。
「……ついさっき、そこで和風おろしハンバーグなるものを食した。あれが初めての食事だった」
初春「はい。そのもう少し前は思い出せますか?」
「……忽然。気がつけばこの街の人通りに立っていた。それ以上はわからない」
初春「……最後です。超能力、というものはご存知ですか?」
「それはなんだ?聞いた事もない」
初春「―――………」
初春の前髪が風に揺れ、靡き、そよぎ、舞い上がった後額に落ちる。
今彼女がした質問の意図。それは時間経過とこの学園都市での常識の確認だ。
前後の不覚が生じたのはすぐ側のファミレスで食事を取る前。即ち今日だ。
そして昨日の事から遡る過去すら思い出せないのは一時的な物忘れなどと言うレベルではない。
さらに超能力……学園都市の代名詞であり、外の世界でも科学の一部として認識されている事さえ知らない。
初春「貴方は……まさか」
この時初春の頭をよぎった言葉を後押しするように、再び強い風が巻き起こった
――――――記憶を……失ってる?――――――
157 : VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(関東)[sage] - 2011/07/05 21:31:23.30 16KSaAYAO 17/172レスオーバーしてしまいました……投下終了となります。記憶喪失って難しいですね。失礼いたします。
シリーズのリンクに含めたほうがよかった気がする
いずれにせよ読めて嬉しかった。ありがとう